衝動blog

気が向いた時に気が向いたことを

マヂカルラブリーは"漫才"王なのか?

※本記事はM-1のネタバレを含みます。

 

 

 

2020年12月20日

コロナ禍で開催が危ぶまれながらもなんとか大団円を迎えたM-1グランプリ。まずは関係者の皆様に開催を英断してくださったこと、大会内での感染者を出さず無事に終了を迎えたことにイチお笑いファンとして最大限の感謝を贈ります。本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

 

 

そんな前代未聞の環境の中、新たな王者が誕生しました。

 

新王者の名は、

エントリーNo.1356

マヂカルラブリー

 

 

 

2017年のM-1グランプリにおいて決勝進出するも、審査員である上沼恵美子氏にネタを酷評され、その後になんとかひと笑い作ろうと野田クリスタルさんが上裸に。

ほぼ"放送事故"といえる静寂がM-1会場を包み込みました。

こうして「マヂカルラブリー上沼恵美子」の"因縁"が生まれたのでした。

 

 

 

2020年。

正座をしながら奈落から登場し、つかみで「どうしても笑わせたい人がいる男」を名乗り冒頭からフルスロットル。マヂカルラブリーらしさ全開のブッ飛んだネタで近年稀に見る大接戦を制しました。

 

 

 

そんな彼らを巡り、一つの議論が巻き起こっている事をご存知でしょうか。

 

 

 

その議論とは…

 

 

 

マヂカルラブリーのネタは"漫才"なのか?』。

 

 

 

 

 

経緯を追ってみましょう。

 

 

 

 

🎙無言の王者

 

特に意見が寄せられているのは、ファイナルラウンドでマヂカルラブリーが披露したネタ。

電車でつり革を掴みたくない野田クリスタルさんがひたすら揺れに耐えるというものでした。

 

 

https://youtu.be/kzwWBOmibyY

 

 

 

無言で揺れを耐え続ける野田クリスタルさんに村上さんがひたすらツッコミ続ける破天荒なスタイルの漫才に、一方では爆笑が、一方では非難が寄せられたのです。

 

野田クリスタルがほぼしゃべっていない。

・動きで笑わせているだけ。

・コントだ。漫才ではない。

・掛け合いがないものは漫才ではない。

 

 

一部ですが主だった意見はこのような内容に要約されるかと思います。

 

 

 

確かに、漫才ときいてイメージするのはボケとツッコミによる会話のやり取り。そこから大きく逸脱してると言えるマヂカルラブリーのネタは、本当に漫才なのでしょうか。

 

 

 

🎙そもそも漫才とは?

漫才(まんざい)は、2人ないしそれ以上の複数人による寄席演芸の一種目。通常、コンビを組んだ2人によるこっけいな掛合いで客を笑わすものを言う。平安時代以来の伝統芸能「萬歳」から発展したもので、もとは鼓などを持ち唄などを交えるのが一般的であったが、今日では音曲を交えるものから社会風刺まで多岐にわたる。

引用:Wikipediaより

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/漫才

 

 

 

もとは鼓や持ち唄などを交えるのが一般的であった、とあります。

漫才は時代とともにその形を変えていったんですね。

とはいえ、どこまでの変容が許されるのか。マヂカルラブリーのネタが漫才ではないとする人々が何に引っかかっているのかを深掘りしてみたいと思います。

 

 

 

🎙過剰なしゃべくり漫才至上主義

 

漫才の定義はわかりましたが、今回の争点である「マヂカルラブリーのネタは漫才なのか?」という問題。

マヂカルラブリーのネタは漫才ではない!という方々の主張は、恐らく本質では無いと推察しています。

今回の騒動の根幹にある思想、それは

しゃべくり漫才以外は認めない!」

という歪んだ認知にあると思います。

 

 

 

結論を先に書いてしまいますが、

マヂカルラブリーのネタは間違いなく漫才です。

 

 

前提として、漫才にも種類があるのだという共通認識を持つ必要があると思います。

漫才は"おおよそ"次項ような種類に大別する事が出来ると思います。

 

 

 

🎙漫才の種類

 

しゃべくり漫才

王道スタイル。漫才師は本人として話題を展開していき、掛け合いの会話のみで成立します。基本的には何かの役やシチュエーションに入り込む事はありません。漫才然としていて根強い人気があるカテゴリです。

実をいうと筆者も一番好きなスタイルです。

近年のファイナリストで例にあげると

かまいたち、オズワルド、インディアンスなどですね。

 

 

・システム漫才

近年、我々一般のお笑いファンにも浸透しているこの言葉。フォーマット漫才ともいわれているようです。

大枠の流れや掛け合いの仕組みは完成されており、題材やテーマのみが変わります。

わかりやすい例でいうとミルクボーイ、ぺこぱ、タカアンドトシなどでしょうか。

 

オカンが〇〇を忘れた→〇〇やないか?→ボケ→ほな〇〇と違うかぁ〜→ボケ→〇〇やないかい!

 

上記の〇〇の部分だけが変わる。

ある程度のシステムが組み上がっているのでシステム漫才。

 

 

コント漫才

シチュエーションや役に入り込み演技を行う漫才。

和牛、サンドウィッチマンジャルジャルなどを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

設定を作る事で壮大なネタにしたり、大きい動きを増やし、視覚的に楽しませる工夫をしやすい利点があります。また、舞台をダイナミックに使う事で迫力や勢いをつけやすいということも挙げられるでしょう。

 

 

🎙批判されがちな"コント漫才"

 

マヂカルラブリーの漫才をあえて大別するとしたら、コント漫才に入るでしょう。

舞台を広く使い、動きで笑わせるネタです。

そんなコント漫才に浴びせられる常套句。

 

 

「じゃあ漫才じゃなくて最初からコントやればいいじゃん。」

 

 

 

確かに、中には延々と役に入り込んでコントを繰り広げるだけの漫才もあり、そのように揶揄されてしまうのもわからないでもありません。

 

ただ、マヂカルラブリーのネタはコントではなく漫才だとハッキリ断言できる構成になっていました。

 

コントとコント漫才には大きな違いがあります。

その性質を利用し、笑いにつなげていたのです。

 

 

 

🎙『定住』のコントと『往来』のコント漫才

 

コントは、一度作られたキャラクター、設定からよほどの事がない限り抜け出す事はできません。

おじいちゃんを演じていた人が、次の瞬間に別人になっているには相応の理由が必要なのです。

演者はコントの世界に定住し続ける必要がある。これが大きな魅力であり、制約です。

 

対して、コント漫才は「自分」と「設定の人物」を自在に切り替える事が出来ます。

「自分」としてボケることも出来れば、「設定の人物」としてボケることも出来ます。ツッコミも然りです。

「設定の人物」のボケに対し、相方が客観的な「自分」の立場でツッコミをする事も可能です。

世界観を重んじるコントの中では絶対にできない手法。

 

コントとコント漫才は、似て非なるものである事がお分かり頂けたと思います。

 

 

この前提を認識した上で、マヂカルラブリーの漫才を改めて観て下さい。

 

 

🎙それでも異端、マヂカルラブリー

 

野田さんは電車で吊革を持ちたくない男を無言で演じ続けます。

それに対し、「自分」であり続ける村上さんが我々観客と同じ立場、つまり俯瞰している客観的な立ち位置から野田さんにツッコミ続けます。

これが仮に、「野田さんと同じ電車に乗っている乗客」として終始ツッコミ続けていたら、コントだと言われても致し方ないかもしれません。

 

 

しかし、通常の世界において電車でつり革に掴まりたくない挙動のおかしい男がいたとして、そのそばに大声でツッコミ続ける男がいたとしたら、それこそ異常事態です。

一定のリアリティと世界観を重んじるコントには適さない内容。

 

漫才という形式だからこそ俯瞰の立ち位置を創出し爆笑を生み出せるネタなのです。

 

 

🎙最後に

 

ここまで書いておいてナンですが、本来漫才のジャンル分けをしたところで面白さに影響があるわけでもないですし、優劣をつけるようなものではありません。趣味嗜好を明確にするためや分析をする際の一助になる程度でしょう。

月並みな言い方ですが、面白ければそれが正義だと思います。

 

元来、鼓や持ち唄を取り入れていた漫才が話芸へと昇華している事からも、変化し続けてきた歴史が正当であると証明しています。

これからも新たな漫才が生まれ続ける事が楽しみです。

 

筆者もしゃべくり漫才は大好きですし、かっこいいと思っています。

だからといって他のスタイルは認めない!という姿勢は漫才界の繁栄を妨げる考えにしかなり得ないと考えています。

 

自分の趣味嗜好を押し付けず、広い視野で漫才を楽しみたいものですね。

 

 

改めてマヂカルラブリーさん、2020年M-1優勝おめでとうございます。

記事のタイトルにもさせて頂いた漫才王かどうか?という問いに対して、ハッキリ申し上げたいと思います。

 

マヂカルラブリー

 

 

 

 

でっかいエビで〜す!!

 

 

 

ありがとうございました。来年も楽しみです。