衝動blog

気が向いた時に気が向いたことを

米津玄師/パプリカ

とてつもない意味が込められているんです!

 

 

 

それだけは伝えたくて。

なんとなく良い曲だな〜

では余りにも。余りにもなんです!!

 

 

 

米津玄師らしさとは?

 

まずはこのブログをご覧下さい。

https://jp.quora.com/kome-tsu-gen-shi-san-no-kyoku-ha-dore-mo-kokoro-ni-nokori-dokutoku-ni-kanji-masu-papurika-ha-kodomo-tachi-mo-daisuki-desu-kyoku-na-no-ka-merodi-na-no-ka-shi-na-no-ka-rizumu-na-no-ka-gikou-toshite-hokano-a-teisuto-to/answers/195547435?ch=10&share=f7cdb966&srid=SafV5

 

言ってしまえばこのブログが全てなんですけど。

それでも俺の言葉で語らせてください。

才能とだけでは言い表しきれない、米津玄師の「人を想う」深さについて。

 

 

まずは歌詞をご覧ください。

 

曲りくねり はしゃいだ道
青葉の森で駆け回る
遊びまわり 日差しの街
誰かが呼んでいる

夏が来る 影が立つ あなたに会いたい
見つけたのはいちばん星
明日も晴れるかな

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種を蒔こう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせあなたにとどけ

雨に燻り 月は陰り
木陰で泣いてたのは誰
一人一人 慰めるように
誰かが呼んでいる

喜びを数えたら あなたでいっぱい
帰り道を照らしたのは
思い出のかげぼうし

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種を蒔こう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせあなたにとどけ

会いに行くよ 並木を抜けて
歌を歌って
手にはいっぱいの 花を抱えて
らるらりら

会いに行くよ 並木を抜けて
歌を歌って
手にはいっぱいの 花を抱えて
らるらりら

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種を蒔こう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせあなたにとどけ
かかと弾ませこの指とまれ

 

正直、初めて聴いたときに思った事。

 

米津玄師っぽくないな…。

でした。

 

なぜなら、意味がわからなかったからです。

 

米津玄師の歴代の曲は思いや意味がふんだん込められていました。

わかりづらくともです。

意味を感じたんです。

 

でもパプリカは、初めて聴いたときに全く意味がわからなかったんです。

 

パプリカ?花が咲いたら種をまこう?

どういうこと?種を撒くから花が咲くんだろ???

なんでパプリカ??????

 

 

オリンピックに向けた曲だから、キャッチーさを重視して意味はあまり込めずに作ったのかな?

そう思っていたんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

違う!!!!!!!!!!

 

なんだったら、歴代で1番意味を込められた楽曲なんです。

 

 

 

米津玄師らしさ全開なんです!!!!!

 

 

 

自分の立場になって考えてくださいよ。

 

国から、

「2020年のオリンピックに向けた曲作って下さいよ〜!」

 

って言われて何を考えますかね?

 

スポーツ、勝利、競技、前向き、明るい。

未来への展望を浮かべる人が大半なのではないでしょうか。

俺もそうです。

 

しかし、米津玄師という男は。

 

まず過去に目を向けるんです。

 

 

パプリカの意味とは?

前述のブログの通りなんですけど。

パプリカは、2011年の痛ましい震災に向けての曲なんです。

 

未来に向けての歌ではなく、過去に向けた歌。

しかし決して後ろ向きな曲ではないんです。

 

 

2011年、日本はどうしようもない絶望感に包まれました。

誰もが、遠方の東京に住む筆者自身にも不安を与えました。

これから自分たちはどうなるんだろう…。

 

そんな思いを抱えながら亡くなっていった方。

そんな思いを抱える暇もないほど、刹那の間に亡くなった方もいました。

 

 

 

 

米津玄師は、そんな不安を抱いていた人々全員に向けて歌っているんです。

 

 

 

 

自分たちの未来に、希望はあるのだろうか?

誰しもがそんな思いを抱いていた。

そんな時代に向けて

パプリカ 花が咲いたら 晴れた空に種をまこう

あなたたちが不安に思っていた不安なんてないよ。

花は咲いたよ。

だから、自分たちも後世に向けて希望を残していくね。

だから、安心してね。

 

そんな意味を込めているのです。

 

パプリカの花言葉

「君を忘れない」

 

 

https://youtu.be/s582L3gujnw

 

 

赤いマントの子は、大人には見えていません。

誰も反応しないことから明らかです。

楽しく生きるはずだった子供を、同世代の子供だけが認知しているのです。

 

そして後半、赤いマントの子供と一緒に戯れていた子供たちが大人になり、赤いマントの子供に花を渡しに行きます。

 

 

おかしいですよね。

一緒に遊んでいた赤いマントの子供は子供のまま。

一方で大人になっている男女。

 

つまり、赤いマントの子供は震災によって亡くなった子供。

その子供たちに向けて、同世代を生きた人間が大人になって会いに行くんです。

 

会いに行くよ 並木を抜けて
歌を歌って
手にはいっぱいの 花を抱えて
らるらりら

 

君たちが不安に思っていた未来は、

きちんと花が開いたよ。

その花を君たちに届けるね。

君たちのことを忘れてなんかいないよ。

だから、安心してね。

 

 

そういったことを2020年の曲に込めているんです。

 

 

 

 

 

こんなに人の事を想える人がいますか!!!!!

 

 

この内容を踏まえた上でまたMVを観てみてください。

 

 

パプリカはただ2020年になんとなく作られた曲ではないんです!!!!!

 

色んな思いを巡らせて想いを馳せてみると涙が出てきます。

 

 

ぜひ、改めて聴いてみて下さい。

 

 

 

誤解してませんか?岡崎体育のこと。

こんばんは。

 

暑い日が続きますね。

太陽、調子乗ってますね。シメたい。

 

 

f:id:nininini_SNDS:20200610185820j:image

 

後にも先にも関係ないですが僕は初期スタンプ多用おじさんです。よろしくな。

 

 

 

 

 

 

岡崎体育のこと、ただの面白ミュージシャンだと思ってませんか。

 

 

 

 

 

たわけ!!!!!

 

 

 

 

 

 

すみません、お約束のように取り乱しました。

 

 

 

 

という訳で、今回は岡崎体育の魅力を伝えるべく筆を取った次第です。

 

 

目次

  1. 岡崎体育とは
  2. 岡崎体育との出会い
  3. 岡崎体育の戦略
  4. 岡崎体育の洞察力
  5. まとめ

 

※お急ぎの方は項目をクリックしてください。特になにも起こりません。時間を無駄にしましたね。

 

 

 

 

 

岡崎体育とは】

岡崎体育(おかざきたいいく、1989年(平成元年)7月3日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。ソロプロジェクトの名称としても用いられる。本名は岡 亮聡(おか あきとし)。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ、所属レコード会社はSME Recordsソニー・ミュージックエンタテインメント)。公式ファンクラブは「Wallets」。

引用:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/岡崎体育

ファンをサイフと呼ぶ岡崎体育

先に言及しますが、音楽の内容については専門的な解説はできません!

主に思想や生き様について、個人の感想と分析を書いていきます。

 

知名度を得たのはなんといってもMUSIC VIDEOでしょう。

 

https://youtu.be/fTwAz1JC4yI

革新的でキャッチーな音楽と映像

 

ミュージックビデオのあるあるをそのまま歌詞にしてしまい、映像とリンクさせる。

ありそうでなかった着眼点と高い共感力、そしてなんといってもハイクオリティな楽曲。

 

ほぼ無名だった岡崎体育を一夜にしてスターダムに押し上げました。

 

独創的な彼の趣向をリスナーに"理解"させる、まさに名刺代わりの楽曲です。

 

 

この楽曲で人々は岡崎体育に興味を持ち、面白いやつがいるな〜!と思ったでしょう。

 

 

 

 

 

…今日はその先を知って欲しいんだってばよ!!

 

 

 

 

 

失礼、心の中のNARUTOの部分が出てしまいました。

 

 

 

岡崎体育との出会い】

個人的なエピソードで恐縮ですが、筆者の岡崎体育との出会いを聞いてください。

 

 

彼を知ったきっかけはヤバイTシャツ屋さんでした。

当時、まだ1stシングルをライブ会場で手売りしていたヤバイTシャツ屋さん

彼らの楽曲を聴く術はYouTubeにある数曲と彼ら自身の学祭ライブのメドレー映像を観るかライブに行くしかありませんでした。

そして、ヤバイTシャツ屋さんのボーカル、こやまたくやさんは映像作品の監督も務めています。自身のバンドのプロデュースは元より、

南堀江knave系バンドと(一部で)呼ばれたARKS、ハウリングアンプリファー、みるきーうぇい、河内REDSなどのMV作品も手掛けていました。

その中に岡崎体育のMVもありました。

ヤバイTシャツ屋さんの楽曲を血眼で探していた時、関連動画のなかにあったその楽曲に強く惹かれたことを覚えています。

 

https://youtu.be/zTmmyIJ6eh8

 

この楽曲に魅せられた筆者は、岡崎体育の楽曲も聴きあさるようになります。

と言っても、ヤバイTシャツ屋さんと同じく当時聴ける曲は数曲。

有名どころだと家族構成、手元不如意、鴨川等間隔、FRIENDS、SNACK、スペツナズ、飛び散る恋神経系、あとなんかめっちゃふざけてるMC集みたいなやつ程度でした。

 

https://youtu.be/P8NLa_LqQII

なんかめっちゃふざけてるMC集みたいなやつ

 

この映像を観る限り楽曲は沢山あるようなのに聴く術がわからない。

CDを調べると全国流通していない手売りCDがあるようでしたが、すでに廃盤になっていました。

 

 

き、聴きたい…

 

 

主な活動拠点が関西だったので、東京でのライブの開催を待ちました。

そして、oh!sushiじゃナイトというアホみたいな名前のイベントに出演すると知り、そこで初めてライブを観ることとなったのです。

当時からゴリゴリにかましていました。

 

 

忘れられない思い出があります。

ライブ終了後、岡崎体育のCDはないものか、と物販に赴きました。

ところが、というか案の定CDの販売はありませんでした。

筆者は物販スタッフの女性に尋ねました。

岡崎体育さんのCDって、どうやったら買えますか?」

すると女性の返答はちょっと困ったような、しかしとても嬉しそうなハニかんだ笑顔で「春になる頃には買えると思いますよ!」とのこと。

 

当時は1月下旬くらいだったので、「結構先だな…。それにしても不思議な言い回しをする人だな」

と思いました。

 

 

それから数ヶ月後、岡崎体育のメジャーデビュー発表、ファーストメジャーアルバムBASIN TECHNOのリリース発表がありました。

発売日は、5月。

 

 

そう。あの時ハニかみながら対応してくれた女性は岡崎体育のマネージャー・松下さんでした。

 

 

会話の中で感じた違和感にも頷けます。

情報解禁前だったので遠回しに「春にはメジャーデビューしてCDを買えるようになるよ!」

と教えてくれていたのでした。粋!

(その前のmeasureも買いました)

 

 

 

岡崎体育の戦略】

さて、だいぶ前置きが長くなってしまいました。

 

ここからは岡崎体育という男の本質を紹介していきたいと思います。

 

 

大半の方が抱く岡崎体育に対するイメージは、「なんだかふざけた事をしているミュージシャン」といった所ではないでしょうか。

 

 

それね…

 

 

 

 

 

合ってます🙆‍♂️!!!!!

 

 

 

 

 

 

なぜなら彼は意図的にキャッチーで面白いものを生み出す意識をしているからです。

今の時代、まずは人の目につかなければ曲を聴いてもらうことすら叶いません。

 

まずは興味を持ってもらえる物を。

 

ただ、それだけじゃないんだよーーー!!

ということを伝えたくての記事タイトルなんです。

 

 

どういうことか。

ここがすごい所だと思っているのですが、

ある種彼はとてもドライに一歩引いた所から物を考えているのです。

音楽を愛し楽しむ一方で、音楽を商売にする方法を堅実に探している印象を受けました。

 

彼の戦略は、ふざけた面白い曲で注意を引き、アルバムを購入してもらう。

そしてふざけた曲とともに自分の側面である情緒に満ちた心情に訴えかける真摯な曲も聴かせるというものなのです。

 

その証拠に、彼のアルバムの構成は前半にふざけたテイストの曲で固められています。

そしてインストゥルメンタル楽曲を挟んだ後、おふざけ無しの真面目な曲をぶつけてきます。

 

f:id:nininini_SNDS:20200610215738j:image

 

f:id:nininini_SNDS:20200610215748j:image

 

どちらが本当の彼なのか?答えは、どちらも間違いなく彼なのです。

だからこそ驚異的。ユーモアとシリアスのバランス感覚を持ち合わせ、それを的確な戦略と方法で聴かせていく。

 

音楽はこんなにも楽しい物なんだよ、と訴えかける力があります。

 

岡崎体育の正体、それはセルフプロデュース力の権化なのです。

 

 

岡崎体育の洞察力】

彼の洞察力を如実に表現している歌詞があります。

 

眼にまだ牙が生えているうちは

書き留め継ける観察日記

楽曲:「観察日記」 より

 

この歌詞から伝わる彼の気迫。

柔らかい存在感からは想像もつかない程、世の中を注意深く観察しているのです。

眼に生える牙。彼の鋭い眼光で捉えられたものは決して逃げられる事なくトドメを刺され、眼から飲み込まれた後に脳内で消化されます。

その後、彼の口あるいは指の先から言葉となってこの世に新たな生を受けます。

常にアンテナをはり、なにも逃すものか!という異常とも呼べる洞察への執着を感じます。

 

このスタンスこそ、人の胸を打ち共感を呼ぶ言葉を紡げる理由なのです。

 

 

カッコいいぞ、岡崎体育

 

【まとめ】

本当は歌詞の紹介などもしたかったのですが思いの外長くなり過ぎてしまったのでまたの機会に。

 

岡崎体育とは、バランス感覚に優れたアーティストです。

同時にユーモアとシリアスを融合させ、戦略的に展開させることが出来る企画力に優れたビジネスマンであるとも言えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごちゃごちゃうるせ〜!!!!!

曲聴け!!!!!!!!!!!!

 

 

https://youtu.be/EGjT1XqMQn4

 

 

 

 

今度歌詞の紹介記事書きます。

よろしくお願いします。おやすみなさい。

 

 

 

SNSの普及と2019年M-1について 続き

…ハッ!!

 

すみません、寝てました。2ヶ月。

 

 

それでね、話の続きなんですけど…。

 

 

SNSの普及による機微の共有】

前回の記事で人を傷つけないお笑いが受け入れられた理由を考察しました。

今回は芸人さん方のレベルの向上についてのお話です。(何様だよ、というのは置いておいて下さい…オネガイ…)

 

 

なぜこれほどまでに2019年M-1が面白いものになったか?

当たり前のことを改めて言います。

 

芸人さん方のレベルがすこぶる高かったんです。

 

本当に笑わなかった組が無かった、というレベルでした。

 

突出して面白い芸人さんが出るならまだしも、なぜ全体的にこれほどまでにレベルが上がっているのでしょうか。

 

「面白い」という感想は主観的なものでしかなく、自分は面白いと思っても、周りの人が同様にそう思うかはわかりません。

 

しかし、SNSの普及によってこの「面白い」の共有を細かく行うことが可能になりました。

 

今まではわざわざ人に共有する程でもない事…世に生まれ落ちず内に秘めていた自分の機微や思想をSNSに言葉や表現として残すことができるようになったのです。

 

そしてそれがいいねや共有という行為で、幅広く認知されるようになった瞬間、裏打ちされた「面白い」や「共感」となります。

 

自分が面白いと思っているものが万人も面白いと思っているのか、統計を取りやすくなったと考えていいでしょう。

 

 

 

【審査員の若返り】

昨今、特にM-1はチャレンジングな人が評価される傾向に戻りつつあります。これはナイツ塙著「言い訳」の中でも語られていた事でもあります。

2018年でいうとトムブラウンが流れを変えるきっかけ作りになるなど、意表を突く漫才師が相応の評価を得る環境になりつつあるのです。

 

数年前からではありますが、審査員に40〜50代の漫才師が加入する形となっています。

中川家 礼二、博多華丸大吉 大吉、サンドウィッチマン 富澤、ナイツ 塙。(敬称略)

 

確かな実力を持ち、尚且つ現役の漫才師である彼らが審査に加わっている事はとてつもない納得感と正当性があると思っています。

漫才師としての苦悩、斬新さへの理解。

多様化へと変貌を続ける漫才界には、固定概念に囚われず、より観客も納得できるジャッジを行えることがとても重要だと思います。

 

余談ではありますが、今回のM-1で塙さんが見取り図に「漫才の途中で鼻を触るクセを直した方がいい。客が漫才に集中できなくなる。」とアドバイスしていたのがめちゃくちゃシビれました。

雑情報といって、本題と関係無いところが気になってしまうと人は集中できなくなってしまうのです。アナウンサーの方々などもニュースに集中してもらうため、日々気を付けているそうです。

目線がさすがプロだな、と。

 

事実、ミルクボーイと比べると(失礼ですが)2人とも一切余計な動きが無いのです。

 

漫才、深ぇ〜〜〜〜〜!!

 

 

【最後に】

まとまりきらないまま発信してしまいなんだかなぁという感じです。すみません。

また、SNSが少なからず影響を与えているのでは無いか?という個人の考察であり、SNSを称賛するものではありません。

今年開催されるのかという心配がありますが、次回のM-1も楽しみですね。

 

個人的なイチオシ漫才師は、沢山いる中でM-1でスポットライトを浴びるのでは?という意味で ラランド です。

SNSの普及と2019 M-1の因果関係

こんばんは。

f:id:nininini_SNDS:20200405221511j:image

f:id:nininini_SNDS:20200405221147p:image

型にハマらず生きていきたいものですがうまくいかないものですね。

 

実は僕ね…

 

 

 

お笑いが好きなんですよ…

 

 

 

 

 

 

 

知らないと思うけど

 

 

 

 

 

 

お笑いが好きなんですよ…

 

 

 

余談ですけど、お笑いが好きって公言すると日常生活のなんてことない発言のハードルが上がる気がしません?

 

お笑い好きな奴がなんか言うぞ!!

みたいな。だからみんな公言しにくいんじゃないかと勝手に思ってます。んぇ〜(古畑)

 

 

 

 

 

 

 

めっちゃ今更なんですけど

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年のM-1、観ました??

 

 

 

 

 

 

 

 

M-1の歴史、もといお笑いの歴史に残る、無粋な言い方をすれば神回と言って差し支えない伝説の回でしたよね!!!!!

僕はかまいたちの漫才がすごすぎて、同じお笑い好きな友達にLINEし始め、興奮しながら観たことを覚えております。

 

f:id:nininini_SNDS:20200407223746p:image

 

 

f:id:nininini_SNDS:20200407223955j:image

 

大興奮のおじさんたち

 

 

 

 

 

決勝進出をしたミルクボーイ、かまいたち、ぺこぱはもとより、全出場者が面白く今大会のレベルの高さを見せつけておりました。

しかも、10組中7組が決勝初進出。

それなのに歴代で間違いなく1番面白かったんです。

まだ見ぬ面白い漫才師の存在すらチラつき、漫才界の未来の明るさがうかがえます。

ゾックゾクするやろ!!(ザブかと)

 

 

 

出場者全員を取り上げていたらキリがないほどレベルの高い大会だったので、主となる芸人さんをピックアップしつつ全体の話としてなぜこれほどまでにM-1がレベルの高い物になったのか?

という考察をしていきたいと思います。

 

 

【ぺこぱにみる時代に即した漫才】

口々に言われてあることがあります。

今回の出場者のほぼ全員が「誰も傷つけない漫才をしていた」ということです。

 

 

この表現には賛否あると思いますし、事実僕も思うところはありますが一旦そういうものとして進めさせてください。

 

事実、見取り図の盛山さんがリリーさんになでしこジャパンみたいな顔しやがって!

と女性の容姿をいじるツッコミをした際、それまでの流れを切るかのように笑いが消えた事がとても印象に残っています。

今の時代、大衆に向けて誰かを傷つける可能性のある発言で笑いを取ろうとすることは、危うい。

 

誰も傷つけない笑いの代表格といえばやはりぺこぱでしょう。

優勝者のミルクボーイよりもTVに出ているのでは無いかと思うほどの活躍ぶりです。

(ちなみにミルクボーイは漫才に軸をおくため上京もしないので、劇場に腰を据えるためTV露出にそこまで固執していないのでしょう。お笑いファンはマジで怖いので補足しておきます。ブルブル。)

 

わかりやすいのでぺこぱを例に話を進めます。

 

ぺこぱのブレイクの要因ともされる「否定しないツッコミ」。

シュウペイさんの突拍子もないボケに松陰寺さんが一瞬、ツッコむのかと思わせたあと即座に優しく包み込み肯定するという前代未聞のシステムを生み出しました。

この手法を見た稀代の天才、オードリー若林さんは感動で涙を流したといいますから、どれ程凄い発明なのかは言及するまでもないでしょう。

 

 

ではなぜ、ぺこぱはここまで万人に受け入れられるのでしょうか。

 

 

コンプライアンスの強化と多様化

昨今、テレビの表現規制や締め付けが大変厳しくなっています。

SNSなどで一視聴者の発言力が向上し、かつ簡単に価値観の共有が行える現代では、

一昔前であれば笑って許されていたこと…

例えば

顔面にパイを投げつける

相手の容姿をいじって笑いにする

なども今ではフィクションであってもクレームとなり、炎上に繋がります。

中には、それ言葉狩りだろ!と感じるものすらもありますが…。

 

現代人は「危うい表現」に敏感であり、少しでも悪に見えそうなものは敵対視する傾向にあるのかと思います。

良くも悪くもそれがトレンドであるということです。

 

その中でぺこぱは「安心して見ていられる漫才」に徹底したのです。

 

ツッコミというのは基本的に訂正であり否定です。

その否定、訂正の中には視聴者の心情や人生の根幹に関わるようなことも含まれるかもしれない。

多様化が進む現代では色んな考えの方がいます。

いえ、昔もいたが表面化しづらい環境だったというべきでしょう。

SNS普及前は、たとえ漫才を見ていて傷ついたとしてもその小さな違和感をわざわざ周知したりしなかったでしょうから、共感がされる事なくうやむやになっていたんだと思います。

しかし、SNSの普及により個々人の発信が増えたことにより、みんなが少なからず抱えていた違和感が表面化しやすくなり、自分と同じ考えの人たちがこれだけいる!

という事が声を大きくする後押しとなった。

そして危うい表現に立ち向かう人が多く現れたのでは無いかと推測しています。

100人いればTVの中のツッコミを通して自分を否定されたような気がしてしまう人が1人いてもおかしくありません。

 

しかし松陰寺さんは何も否定しない。

つまり視聴者すら否定しない。

だから安心して見ていられるのです。

 

これは(そのような意図は無いことは分かった上で敢えて言わせて頂くと)逆説的な風刺にもなっていると思います。

つまり、否定的な事をいうとすぐ炎上する現代の状況をこれでもかと肯定する事で"イジっている"と捉えることも出来るわけです。

 

 

何様だという発言をしますが、本当に芸人さんとして100点満点中150点の目の付け所では無いでしょうか。

 

 

書ききれないので続きは明日以降に回します

おやすみねみー!

神田伯山 中村仲蔵が伝えたいこと

こんばんは。

 

f:id:nininini_SNDS:20200406173939j:image

 

男なら憧れるペストマスク。

大義名分を得た今、着けるしかないっしょ!

俺?俺はつけませんよ!アホ!スカ!トンチキ!

 

 

 

突然ですがみなさん、講談という伝統芸能をご存知でしょうか。

知らなくても大丈夫です。私も詳しくないんで。ニワカです。

ニワカながら今、講談家の神田伯山先生にとてもハマっております。(ミーハー!)

これから述べることに誤りがある可能性も多分にあります。申し訳ねぇ!

 

感想という名のネタバレなので、嫌な方は先に下記リンクの動画をみて下さい。

 

https://youtu.be/xpV1xIcg9As

 

さいこ〜!

 

【講談・落語とは】

落語

一人の演者(噺家)が、滑稽な話を登場人物の会話形式で語ってゆく演芸。導入部分のまくら、最後のどんでん返し的な結末であるサゲまたはオチが存在する。江戸初期に誕生し、内容から滑稽話、人情話、怪談話に分かれる。大まかに、第二次大戦前にできたものを古典落語、それ以降のものを新作落語と呼ぶ。明治中期までは落とし噺といった。

引用元:https://kotobank.jp/word/落語-146992

 

講談とは

講釈。軍記、武勇伝、出世物語などを独特の節を付けて語る話芸。江戸時代の「太平記読み」「辻講釈」から発展した。釈台(しゃくだい)を張り扇で叩きながら、リズムを取る。

引用元:https://kotobank.jp/word/講談-62698

 

正確には上記を参照。

個人的な違いをめちゃザックリ述べると、落語は一人芝居。

講談は一人芝居+ナレーションという形。

講談家自身が俯瞰的に物語内に入り込み補足説明などをすることができる、というところでしょうか。

(いいからみて〜〜〜〜〜面白いから)

 

中村仲蔵の苦悩】

さて、中村仲蔵です。

こちらは江戸時代の役者のお話。

 

当時、役者には階級制度があった。

しかし、由緒正しい血筋のものでないと最高の階級、名題には上がることはできなかった。

 

血統の良くない中村仲蔵は、才能と努力で階級をどんどんと上げていく。

周りの反発もあるなか、前代未聞の名題への昇進を遂げるが…。

 

という内容。

 

ザックリした結論としては、

大袈裟に言うと運命を自分の実力でねじ伏せる話なんですね。

こんなん、男すっきゃねん。決まってんねん。

もうつまり、これは少年ジャンプですよ。

努力!友情!勝利!です。(語弊)

 

神田伯山先生が情感たっぷりに中村仲蔵の苦悩と努力をリズム良く伝えてくれます。

 

もうね、心に響くんですよ。

誰も注目していなかった役を緊張感と未知への挑戦、プレッシャーを抱えながら演技する。

今自分がやっていることは本当に正しいのだろうか?

間違ってはいないか?逃げてしまおうか?

そうした葛藤にぶち当たった時に支えになるのが、自分を認めてくれる人がいる、ということなのです。

 

【五段目が…よかった】

感動したくだりを文字起こしさせて戴きます。

是非本編を見てからどうぞ。

 

ガキの時分は弁当幕なんておかしいじゃねぇかと思ってた。

でも歳取るとよ、そういうもんなんだ。五段目は弁当幕でいいんだ、碌な工夫なんかしなくていい、って思うようになる。

…違ぇな。

面白ぇもんは面白ぇし、つまらねぇものはつまらねぇ。良いものは良いし悪いものは悪い。

そんな当たり前のこと、あんな小僧みてぇな役者にいい年して教わった。

 

この展開は本当に目頭が熱くなります。

誰も注目していなかった役を工夫してより良いものにしようという心意気。

それに胸を打たれ言葉をなくす人々。

口コミが話題を呼び、今までにない人気を博します。

 

これはエンターテイメントはもちろん、全てのものに通ずる事だと思いました。

「この形が当たり前」という先入観をもつと、それをより良い物にしようとすることは困難になる(厳密にいうとより良い物にしようとすら思わなくなる)というのは、耳が痛いですね。

 

中村仲蔵の生き方】

中村仲蔵を通して伝わってくること。

これはありがちな階級制度に真っ向から立ち向かうお話ではありません。

その証拠に登場人物たちは階級制度については特に言及していません。理不尽を強いられている中村仲蔵までも。

与えられた役、与えられた環境の中で自分のできる精一杯の努力をした結果、周りに認められ感動の伝播へ至ったのです。

 

しかし、この感動の伝播こそが階級制度への疑問となる気付きだったのでは無いか、と思います。

良いものは良いし悪いものは悪い。

なのに血筋が違うからという理由で認めないのはおかしいのでは?

作中ではそのように明言されているわけではありませんが、中村仲蔵のひたむきな生き方が多くの人々に考えるきっかけを与えた事を思うと、後世に与えた影響力は計り知れません。

 

「たった1人が認めてくれていればそれでいい。」

中村仲蔵は決して大勢に受け入れられようと迎合していたわけではありません。

響く人に、今自分ができるだけの精一杯を。

その研鑽が一人一人に届いた結果です。

 

バランスの難しい事ですが、自分を認めてくれる人に向けて持てる限りの努力をし続ける事がモチベーションの維持になり、大成へと繋がるのではないでしょうか。

 

 

 

 

ふぅ…

 

 

 

 

 

 

 

見て〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

「やりにいっている」という罪深さ

こんばんは。

 

f:id:nininini_SNDS:20200405222928j:image

揖保乃糸のパッケージデザイン、めちゃくちゃカッコよくないですか???

このデザインのTシャツあったら買います。

 

 

突然ですが皆さん、やりにいってますか?

 

 

「やりにいっている」。

この感覚を持ち合わせてる人もいれば、いまいちピンとこない人もいると思います。

昨今、TVなどでも取り上げられるワードなので市民権を得てきていると思いますが、定義を擦り合わせましょう。

 

【やりにいっているとは?】

例えばこんなことを思った事はないでしょうか。

TVなどでおバカタレント(死語)が突飛な回答をする。

 

「…こいつ、本当は答えが分かっているのにワザと間違った回答をしているんじゃないのか?」

 

 

そうです。

これこそが「やりにいっている」の正体です。

この疑問はTBS系列 水曜日のダウンタウンの中で「おバカタレントやりにいっている説」としても取り上げられていました。

疑問が解消される上、人の闇に触れつつも笑える良回なので一見の価値ありです。

 

「やりにいく」とはただ単に背伸びをする事やウケ狙いをするということとは違います。

 

「背伸び」はあくまで"本来の自分"が軸にあり、少しの期間無理をするということです。

背伸びをした後は必ずカカトを地面につけます。本来の立ち方に戻ってくるのです。

 

「ウケ狙い」は読んでの如く、冗談やギャグなどで相手を笑かしにかかっている様ですね。

 

 

対してやりにいくとは

「本来の自分とはかけ離れた演出をする事で自分の地位、好感度の向上を目指した行為」なのです。

自分というアイデンティティを根底から偽装し、その場限りでは終わらない「虚偽の自分」を作り上げ、継続することになります。

地に足がついている背伸びと比べて、こちらは手作りロケットを宇宙に向けてぶっ放しているような物です。

心許ね〜〜〜〜!!

 

思えばこの感覚に気づいたのは成人式後の飲み会の場での事でした。

 

中学の時は大人しめだった青木くん(仮名)が、社会人となりとてもはっちゃけた人となっていました。

 

 

「この辺の飲み屋のキャッチ、だいたい友達だから!」

「この間名前も知らない女、抱いちまってさ〜」

「毎日焼酎10杯くらい飲まないと寝られなくてさ〜」

 

 

 

私は思いました。

 

 

 

「こいつ、やってんな〜〜〜〜〜〜!!!」

 

 

 

いや、当時「やってる」という言葉こそありませんでしたが、虚栄心という鎧で完全武装している青木くんをみるのはとてもいたたまれない気持ちになったことを覚えています。

今思えば完全にこの言葉が当てはまるのです。

 

【人はなぜやりにいってしまうのか?】

結論からいうと、やりにいってない人なんかいません。

日々人間はどこかで無理をし、理想の自分を演じるために「やりにいってる」のです。

いわば処世術としての演出です。

演出は自分を鼓舞するため、穏便にその場を切り抜けるためには必要な要素です。

その努力をいじったりだとか嘲笑うような事は無粋の極みですよ!まったく!

 

肝心なのは、やりにいっていることをいかに相手に悟らせないか、にあると思っています。

 

前述した青木くんは、どこからどうみても、もう完全にやりにいってました。

目をギラギラさせ、鼻息は荒く。

腕をブンブン振り回し、やったんぞ〜!と

聞いてもいないことをベラベラと語り始め、用意してきたであろうネタを披露する独壇場と成り果てていました。

さながらグレイテスト・ショーマンです。

いやあんな素晴らしい映画を引き合いに出すな!!ふざけるなよ!!!!

 

青木くん改めヒュー・ジャックマンのThis Is Meを聴きながら心の中で私は

 

 

 

「もうやめてくれ〜〜〜みてらんね〜〜〜!!」

と思ってました。

 

 

青木くん、君飲み会で全然お酒飲んでなかったじゃないか!!

僕たちはソフトドリンクでもウェルカムなんだよ!!

 

【過度に「やりにいく」ことは演出ではなく横着】

気にならない「やってる」と気になってしまう「やってる」の違いはどこにあるのでしょうか?

 

それは、冒頭に話した現在の自分とやりにいった時の自分との振れ幅にあると感じます。

 

本来の自分に少しエッセンスを加え、上乗せする程度の物であれば可愛げもありますしそこまで違和感がありません。なんなら気付かないかも。

 

しかし、理想とする自分、あるいは こうしたら評価されるだろうという打算的な目標が本来の自分とあまりにもかけ離れている場合、その違和感は他者にも明確に伝わります。

おバカタレント(死語)の例で言うと、その人のキャラクターの上におバカなエッセンスが少し加えられるくらいであれば微笑ましいし笑えます。

しかし、「おバカな回答をすれば評価される!」という着地点が先にくると、本来のキャラクターが見えてこず打算的で不自然な「やりにいっている様」だけが残ります。

 

昨今、SNS上で自分を演出することも簡単にできるようになってきました。

しかし、本当の魅力というのはその人の人間味にのみ宿るものです。

やりにいった打算的なキャラクター像に魂は篭りません。

自分自身の本質を向上させることなく、上辺だけやりにいった横着は人に簡単に見破られるものです。

 

根本の自分自身を魅力的にすることさえできていれば、打算的にやりにいく必要はなくなってきます。

 

 

 

自戒として。