衝動blog

気が向いた時に気が向いたことを

あたかも読書家のように

近所の本屋さんは、個人が営む小さな店舗だ。

駅構内によくありがちな6畳程度のスペース。お客が6〜7人もいれば満員と言えるだろう。

個人が経営しているため、品揃えは店主の趣味が色濃く反映されており、希少な書物や偏執的な商品が並ぶ…事はなく、確かな売れ筋商品と新書、普遍的名作のみが並ぶ。

 

欲しい本がある時は、そのお店を覗きにいく。

正直、お目当ての商品を見つけられた事は数えるほどしかない。それなのになぜ行くのだろうか。

思い入れやこだわりがあるわけでもない。

今回こそは!と宝くじの当選番号を見るような気持ちなのだと思う(つまりはほとんど諦めの感情を携えて足を運ぶのである)。

 

今日も3冊ほどお目当ての本があったのだが、どれひとつとして陳列されていなかった(代わりに某宗教のありがたいお言葉をまとめた本は全巻置いてあった)。

 

 

商品棚に目を通す際、目が滑ることに気づく。

思えばこの1年間、度のあっていないメガネをつけて過ごしている。なぜかと問われれば、買い換えがただただ面倒だからだ。

コロナというサボりの口実にはもってこいの悪友が馴れ馴れしく肩を組んでくるものだから、ついついこいつに流されてしまっていた。

 

帰宅。積読している本が多数あることに気付く。

なんだ、新しい本を買うにはまだ早かったか。

品揃えの悪い個人経営店にある種救われた。

明日は特に予定がないので、メガネを買い替えピントのあった両眼で積読の消化に励むこととする。

 

 

結婚指輪を外す日。

 

結婚して1年と5ヶ月が経った。

籍を入れたその日から欠かさず付けていた結婚指輪を、今日外した。

正確に言えば手癖で付けたり外したりはしていたが、失くすのが怖くてすぐに定位置に戻すのだった。

たかが数グラムの金属の輪っかでしか無いのに、これ程までに重い存在になるとは。何もない左薬指は羽が生えたようにどこかふわふわしている。身軽な期間の方が何十倍も長かった癖に、半日が過ぎただけでももう落ち着かない。

 

2月の半ばごろ、指輪は装いを新たに返ってくるらしい。それまではどこか物足りない薬指を眺めながら日々を過ごそうと思う。

 

 

マヂカルラブリーは"漫才"王なのか?

※本記事はM-1のネタバレを含みます。

 

 

 

2020年12月20日

コロナ禍で開催が危ぶまれながらもなんとか大団円を迎えたM-1グランプリ。まずは関係者の皆様に開催を英断してくださったこと、大会内での感染者を出さず無事に終了を迎えたことにイチお笑いファンとして最大限の感謝を贈ります。本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

 

 

そんな前代未聞の環境の中、新たな王者が誕生しました。

 

新王者の名は、

エントリーNo.1356

マヂカルラブリー

 

 

 

2017年のM-1グランプリにおいて決勝進出するも、審査員である上沼恵美子氏にネタを酷評され、その後になんとかひと笑い作ろうと野田クリスタルさんが上裸に。

ほぼ"放送事故"といえる静寂がM-1会場を包み込みました。

こうして「マヂカルラブリー上沼恵美子」の"因縁"が生まれたのでした。

 

 

 

2020年。

正座をしながら奈落から登場し、つかみで「どうしても笑わせたい人がいる男」を名乗り冒頭からフルスロットル。マヂカルラブリーらしさ全開のブッ飛んだネタで近年稀に見る大接戦を制しました。

 

 

 

そんな彼らを巡り、一つの議論が巻き起こっている事をご存知でしょうか。

 

 

 

その議論とは…

 

 

 

マヂカルラブリーのネタは"漫才"なのか?』。

 

 

 

 

 

経緯を追ってみましょう。

 

 

 

 

🎙無言の王者

 

特に意見が寄せられているのは、ファイナルラウンドでマヂカルラブリーが披露したネタ。

電車でつり革を掴みたくない野田クリスタルさんがひたすら揺れに耐えるというものでした。

 

 

https://youtu.be/kzwWBOmibyY

 

 

 

無言で揺れを耐え続ける野田クリスタルさんに村上さんがひたすらツッコミ続ける破天荒なスタイルの漫才に、一方では爆笑が、一方では非難が寄せられたのです。

 

野田クリスタルがほぼしゃべっていない。

・動きで笑わせているだけ。

・コントだ。漫才ではない。

・掛け合いがないものは漫才ではない。

 

 

一部ですが主だった意見はこのような内容に要約されるかと思います。

 

 

 

確かに、漫才ときいてイメージするのはボケとツッコミによる会話のやり取り。そこから大きく逸脱してると言えるマヂカルラブリーのネタは、本当に漫才なのでしょうか。

 

 

 

🎙そもそも漫才とは?

漫才(まんざい)は、2人ないしそれ以上の複数人による寄席演芸の一種目。通常、コンビを組んだ2人によるこっけいな掛合いで客を笑わすものを言う。平安時代以来の伝統芸能「萬歳」から発展したもので、もとは鼓などを持ち唄などを交えるのが一般的であったが、今日では音曲を交えるものから社会風刺まで多岐にわたる。

引用:Wikipediaより

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/漫才

 

 

 

もとは鼓や持ち唄などを交えるのが一般的であった、とあります。

漫才は時代とともにその形を変えていったんですね。

とはいえ、どこまでの変容が許されるのか。マヂカルラブリーのネタが漫才ではないとする人々が何に引っかかっているのかを深掘りしてみたいと思います。

 

 

 

🎙過剰なしゃべくり漫才至上主義

 

漫才の定義はわかりましたが、今回の争点である「マヂカルラブリーのネタは漫才なのか?」という問題。

マヂカルラブリーのネタは漫才ではない!という方々の主張は、恐らく本質では無いと推察しています。

今回の騒動の根幹にある思想、それは

しゃべくり漫才以外は認めない!」

という歪んだ認知にあると思います。

 

 

 

結論を先に書いてしまいますが、

マヂカルラブリーのネタは間違いなく漫才です。

 

 

前提として、漫才にも種類があるのだという共通認識を持つ必要があると思います。

漫才は"おおよそ"次項ような種類に大別する事が出来ると思います。

 

 

 

🎙漫才の種類

 

しゃべくり漫才

王道スタイル。漫才師は本人として話題を展開していき、掛け合いの会話のみで成立します。基本的には何かの役やシチュエーションに入り込む事はありません。漫才然としていて根強い人気があるカテゴリです。

実をいうと筆者も一番好きなスタイルです。

近年のファイナリストで例にあげると

かまいたち、オズワルド、インディアンスなどですね。

 

 

・システム漫才

近年、我々一般のお笑いファンにも浸透しているこの言葉。フォーマット漫才ともいわれているようです。

大枠の流れや掛け合いの仕組みは完成されており、題材やテーマのみが変わります。

わかりやすい例でいうとミルクボーイ、ぺこぱ、タカアンドトシなどでしょうか。

 

オカンが〇〇を忘れた→〇〇やないか?→ボケ→ほな〇〇と違うかぁ〜→ボケ→〇〇やないかい!

 

上記の〇〇の部分だけが変わる。

ある程度のシステムが組み上がっているのでシステム漫才。

 

 

コント漫才

シチュエーションや役に入り込み演技を行う漫才。

和牛、サンドウィッチマンジャルジャルなどを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

設定を作る事で壮大なネタにしたり、大きい動きを増やし、視覚的に楽しませる工夫をしやすい利点があります。また、舞台をダイナミックに使う事で迫力や勢いをつけやすいということも挙げられるでしょう。

 

 

🎙批判されがちな"コント漫才"

 

マヂカルラブリーの漫才をあえて大別するとしたら、コント漫才に入るでしょう。

舞台を広く使い、動きで笑わせるネタです。

そんなコント漫才に浴びせられる常套句。

 

 

「じゃあ漫才じゃなくて最初からコントやればいいじゃん。」

 

 

 

確かに、中には延々と役に入り込んでコントを繰り広げるだけの漫才もあり、そのように揶揄されてしまうのもわからないでもありません。

 

ただ、マヂカルラブリーのネタはコントではなく漫才だとハッキリ断言できる構成になっていました。

 

コントとコント漫才には大きな違いがあります。

その性質を利用し、笑いにつなげていたのです。

 

 

 

🎙『定住』のコントと『往来』のコント漫才

 

コントは、一度作られたキャラクター、設定からよほどの事がない限り抜け出す事はできません。

おじいちゃんを演じていた人が、次の瞬間に別人になっているには相応の理由が必要なのです。

演者はコントの世界に定住し続ける必要がある。これが大きな魅力であり、制約です。

 

対して、コント漫才は「自分」と「設定の人物」を自在に切り替える事が出来ます。

「自分」としてボケることも出来れば、「設定の人物」としてボケることも出来ます。ツッコミも然りです。

「設定の人物」のボケに対し、相方が客観的な「自分」の立場でツッコミをする事も可能です。

世界観を重んじるコントの中では絶対にできない手法。

 

コントとコント漫才は、似て非なるものである事がお分かり頂けたと思います。

 

 

この前提を認識した上で、マヂカルラブリーの漫才を改めて観て下さい。

 

 

🎙それでも異端、マヂカルラブリー

 

野田さんは電車で吊革を持ちたくない男を無言で演じ続けます。

それに対し、「自分」であり続ける村上さんが我々観客と同じ立場、つまり俯瞰している客観的な立ち位置から野田さんにツッコミ続けます。

これが仮に、「野田さんと同じ電車に乗っている乗客」として終始ツッコミ続けていたら、コントだと言われても致し方ないかもしれません。

 

 

しかし、通常の世界において電車でつり革に掴まりたくない挙動のおかしい男がいたとして、そのそばに大声でツッコミ続ける男がいたとしたら、それこそ異常事態です。

一定のリアリティと世界観を重んじるコントには適さない内容。

 

漫才という形式だからこそ俯瞰の立ち位置を創出し爆笑を生み出せるネタなのです。

 

 

🎙最後に

 

ここまで書いておいてナンですが、本来漫才のジャンル分けをしたところで面白さに影響があるわけでもないですし、優劣をつけるようなものではありません。趣味嗜好を明確にするためや分析をする際の一助になる程度でしょう。

月並みな言い方ですが、面白ければそれが正義だと思います。

 

元来、鼓や持ち唄を取り入れていた漫才が話芸へと昇華している事からも、変化し続けてきた歴史が正当であると証明しています。

これからも新たな漫才が生まれ続ける事が楽しみです。

 

筆者もしゃべくり漫才は大好きですし、かっこいいと思っています。

だからといって他のスタイルは認めない!という姿勢は漫才界の繁栄を妨げる考えにしかなり得ないと考えています。

 

自分の趣味嗜好を押し付けず、広い視野で漫才を楽しみたいものですね。

 

 

改めてマヂカルラブリーさん、2020年M-1優勝おめでとうございます。

記事のタイトルにもさせて頂いた漫才王かどうか?という問いに対して、ハッキリ申し上げたいと思います。

 

マヂカルラブリー

 

 

 

 

でっかいエビで〜す!!

 

 

 

ありがとうございました。来年も楽しみです。

 

 

なんでもない日バンザイ

な〜んにもしませんでした。

 

な〜んでもできたはずなのにな〜んにもしませんでした。

 

Creepy な〜utsのライブ配信アーカイブは観ました。

そういえば。

アラサーでも変化と進化を恐れずに、今からでも何にでもなれる!というメッセージにいたく胸が震えました。

 

 

 

な〜んにもしなかったというのは、嘘でした。

 

 

 

暑かったらアイスを食べたら良いんだよ。

 

 

タイムマシンにお願い

俺の場合は音楽がそうなんだけど。

 

人間は誰しも自分だけのタイムマシンを持っている。

思い出と強く結びついているもの。

使い慣れた道具に触る時。

キンモクセイの匂いを嗅ぐ時。

:Reの文字を見た時。

 

俺の耳はイヤホンで塞がっていた時間のほうが長い。

ポルノグラフィティのTHUMPχを聴くと雨天に自室のベッドで仰向けになっていた中学時代にひとっとびできる。

マキシマム ザ ホルモンのブラック¥パワーGメンスパイを聴けば高校3年の下校後に溜まっていたマックに。

ミドリ、the telephonesサンボマスターを聴けば初めてライブハウスに足を踏み入れたあの日に行ける。

 

なんでそんな事を思ったかというと、今日サブスク解禁されたハチの曲を聴いていたからだ。

俺は米津玄師が大好きで、その世界観や音楽の坩堝にのめり込んできた。

2ndが出た時に聴きはじめたので、1stと共にその時代の曲がより特別なものになっている。

(当然今の曲も素晴らしい。)

 

思えば今までハチの楽曲に手が出なかったのは、知り尽くしてしまうのが怖かったからだ。

俺はRPGのラスボス手前のセーブポイントでげーむをやめてしまうような人間で、その世界が終わってしまう事に対し悲哀と恐怖を感じる。

ハチを聴いたら、いよいよあの頃の彼の全てを知ってしまう。それが怖かった。

 

新アルバムと同時に解禁されたこのタイミングじゃなければ、もしかしたらずっと聴けなかったかもしれない。

 

至極当たり前の話だし、何に感動してるんだ?と思われるだろうがハチを聴いたらあの時の米津がいた。曲の雰囲気や展開、ギターのリフ。あの時の初期衝動に包まれた米津がいたのだ。

もう会えない家族や友達からの手紙を見つけたような、そんな心境でいる。

 

ハチの曲はほぼ知らないのに、その時代の匂いを感じる。就活して新社会人になろうともがいていたあの時に戻ることができる。

 

俺はまた新たなタイムマシンを手に入れた。

 

 

電池残18%

時限爆弾のような心許ないスマートフォンを駆使してどこまでやれるのか挑戦したいと思う。

思えばブログも久しぶりだ。こと何かを作成し公開するという分野において、俺は何かと身構えがちだ。

そんな大層なものでもないのであるから、気の向くまま風の吹くまま好きなように書き殴ってしまえば済むものを。心の取捨選択が苦手で、伝えたい事ばかりで溢れている。

最近学んだ事は「全部伝えるより、一部だけ伝えた方がよっぽど相手に伝わる」という事。皮肉である。

 

ポエトリーを探求することこそゆとりであり心の豊かさに繋がると思うし、好きなものや表現したいものが詩的であると兎角バカにされがちな昨今だが、心の奥底に根付いていてしょうがない。好きで好きでたまらない。思いの丈が身体を満たして、表面張力の限界点を突破した塊が言葉や文字となって現れているだけなのである。

俺の内にあるか、外側に形を持って落とし込まれているか。それだけの違いなのでいまやもう他人の目なんて全く気にならない。それにしても暑い。影に身を埋めていたい。それがちょうど良い気がする。

電池残13%であるので頃合い